大牟田・三池に、
死んだあと、自分を苦しめた男のもとへ毎晩現れた和尚がいた。
そう聞くと、
夏の怪談かなにかと思うかもしれません。
ところがこの話。
舞台になったと伝わる寺は、
今も大牟田にあります。
三池山の麓にある、
定林寺(じょうりんじ)。
今では紫陽花の美しい寺として知られるこの場所に、
昔から語り継がれてきた、
少し怖くて、
それ以上に切ない物語があります。
主人公は――
祖門(そうもん)和尚。
これは、
一人の和尚が寺を守ろうとしたことから始まったお話です。

このお話は、大牟田・三池に伝わる民話です。和尚の最期などには複数の語りがあり、ここでは寺を追われ、旅の末に戻ったという伝承を紹介します。
舞台は、大牟田・三池の定林寺
三池山の麓、現在の大牟田市今山にある定林寺。「あじさい寺」として、この町で親しまれているお寺です。
三池という名前から、炭鉱や港を思い浮かべる人もいるでしょう。今回は、その山側に残る物語。いつもの町を少し違った目で見たくなる、第5話です。

三池の定林寺に、変わった和尚がいた
祖門和尚は、
定林寺の第17代住職だったと伝えられています。
けれど、
和尚らしい立派な格好をしていたわけではありません。
寒い冬でも裸足。
着ているものは粗末。
道端に落ちている縄や藁まで拾って歩く。
そして、
まだ履ける草履は大切に懐へしまい、
人が来た時だけ履いた――
そんな人物として伝えられています。
「なんで、そこまでするの?」
村の人たちから見れば、
かなり変わった和尚だったのでしょう。
でも、
そこには理由がありました。
三池山の麓で、寺を守ろうとした
当時の定林寺は、
堂宇も傷み、
修理するお金もなく、
寺として維持することさえ難しい状態だったと伝えられています。
祖門和尚には、
ひとつの願いがありました。
この寺を、もう一度立派にしたい。
そのために、
使えるものは捨てない。
食費も削る。
草履も自分で直す。
寺の灯明に使う油さえ、
少しでも安く手に入れようと工夫した。
現在の感覚で見ると、
「そこまで節約する?」
と思うほどです。
でも和尚は、
何年もそれを続けました。
やがて、和尚は大金を貯める
少しずつ。
本当に少しずつ。
和尚は寺のために金を蓄えていきます。
郷土に伝わる物語では、
その額はついに
数百両。
和尚はその金を使い、
荒れていた寺を修繕しました。
境内を整え、
堂宇に手を入れ、
かつて荒れていた定林寺は、
少しずつ寺らしい姿を取り戻していったといいます。
それまで和尚を、
「変わり者」
「ケチな坊主」
と見ていた人々も、
ようやく気づきます。
この人は、
自分のために金を貯めていたわけではなかった。
全部、寺のためだった。

ところが、その噂を聞いた人物がいた
「定林寺の和尚は、かなりの金を持っているらしい。」
その噂は、
ある権力者の耳にも入ります。
伝承に登場する人物の名は、
屋山大進。
郷土資料では、
藩の財政が苦しい中、
大進が祖門和尚へ金を用立てるよう求めたと語られています。
和尚は断りました。
その金は、
自分の金ではない。
寺を建て直すため、
何年もかけて貯めた金です。
それでも断り切れず、
和尚はついに、
大切に貯めてきた金を
期限付きで貸した
と伝えられています。
和尚は、
返ってくると信じていました。
しかし――
返済の日になっても、
金は戻ってきませんでした。
「金を返してほしい」
和尚は何度も頼みました。
寺を建てたい。
そのために貯めた金なのだ。
返してほしい。
けれど、
取り合ってもらえない。
それどころか、
何度も返済を求めた和尚は、
ついには――
この土地から追い出された。
そう伝えられています。
寺を守るために、
何年も節約した。
自分の生活まで削った。
やっと寺を再興した。
もっと立派な寺にしようと、
また金を貯めた。
その金を失い、
最後には、
人生をかけて守ってきた寺からも追い出される。
祖門和尚は、
定林寺を去りました。

追われた和尚は、三池へ戻った
それから和尚は、
各地をさまようようになったといいます。
笠ひとつ。
杖一本。
帰る場所もありません。
やがて、
心だけでなく身体まで病に侵されていった。
そして和尚は思ったのでしょう。
「どうせ死ぬのなら、定林寺で死にたい」
祖門和尚は、
最後の力を振り絞って、
再び三池へ向かいました。
山を越え、
野を越え、
ようやく定林寺へ辿り着いたのは、
深夜だったと伝えられています。
和尚は、
経を唱えながら――
そこで息を引き取りました。

そして、ある夜。
村人たちは、
和尚を定林寺の墓地へ丁寧に葬りました。
これで、
祖門和尚もようやく眠れる。
誰もが、
そう思ったはずです。
ところが。
ある夜を境に、
奇妙な出来事が起こり始めます。
定林寺の墓地から――
火の玉が上がった。
そしてそれは、
和尚から金を借り、
返さなかったと伝えられる屋山大進の屋敷へ向かった。
さらに、
白い衣を着た和尚の姿まで、
大進の前に現れるようになったというのです。
毎晩、和尚がやってくる
一度ではありません。
伝承では、
祖門和尚の幽霊は、
毎夜のように現れた
と語られています。
大進は苦しみました。
刀を抜き、
誰もいない空間へ向かって暴れる。
目に見えない何かに怯え、
日に日に痩せていく。
やがて大進は、
自分がしたことを、
深く悔いたといいます。
そして、
和尚の魂を鎮めるため、
あることを始めます。
石、一つに。文字、一つ。
大進夫妻が行ったと伝わるのが、
「一字一石」
です。
経典の文字を、
一つの石に、
一文字ずつ書いていく。
一字。
また一字。
それを、
膨大な経典すべてについて行う。
そして、
その石を納め、
和尚の菩提を弔うための塔を建立した。
郷土に残る物語では、
これによって祖門和尚の幽霊は、
二度と姿を現さなくなったとされています。

この話がおもしろいのは、「幽霊」だけじゃない
ここまで読めば、
典型的な怪談に見えるかもしれません。
でも、
祖門和尚の話を読んでいると、
少し違って見えてきます。
和尚は、
最初から恨みを抱えていた人物ではありません。
むしろ、
物を粗末にせず、
自分の生活を切り詰め、
寺のために働き続けた人物として描かれています。
その和尚が、
理不尽によってすべてを失った。
だからこそ、
この話を語り継いだ人たちは、
和尚の幽霊を単なる「怖い存在」としてではなく、
無念の象徴
として見ていたのかもしれません。
これは解釈ですが、
そう考えると、
この物語はかなり人間臭い。
そして今も、大牟田・今山に定林寺はある
舞台になった定林寺は、
現在も大牟田市今山にあります。
大牟田市の公式観光サイトでは、
中世三池氏の菩提寺として紹介されています。
境内に残る三池氏供養塔や五輪塔などの石塔群にも、
この土地の古い歴史が刻まれています。
今では、
紫陽花の名所として知っている人の方が多いかもしれません。
でも、
青や紫の紫陽花が咲く、
あの静かな寺にも、
こんな物語が残っています。
人は死んでも、無念は残るのか。
幽霊が本当に現れたのか。
火の玉が本当に飛んだのか。
もちろん、
今となっては確かめようがありません。
そして今回の話は、
歴史的事実として確認された出来事というより、
三池に伝承されてきた民話として読むべきものです。
それでも、
長い時間が経った今まで、
この物語が残っている。
そこには、
昔の人たちが
「理不尽なことをすれば、いつか自分に返ってくる」
という思いを、
この物語へ込めた部分もあったのかもしれません。
怖い。
でも、
どこか切ない。
そして最後には、
少しだけ人間について考えさせられる。
そんな昔話です。
次に定林寺を訪れた時、
紫陽花だけではなく、
少しだけ思い出してみてください。
かつてここに、
寺を守るためにすべてを捧げ、
死んだあともう一度戻ってきた――
祖門和尚がいたと語り継がれていることを。
大牟田むかしばなし。
大牟田・三池には、まだまだ知られていない物語があります。
教科書にはほとんど載らない。けれど、誰かが語らなくなれば、そのまま消えてしまうかもしれない。
そんな大牟田の昔話や伝説を、現代の言葉でもう一度。「おおむた、これから。」では、これからも少しずつ集めていきます。

参考資料と、この物語について
三池に伝わる祖門和尚の物語を、現代の言葉で紹介しています。幽霊や火の玉、登場人物の言葉は伝承上の描写であり、実証された歴史的事実を示すものではありません。
三池小学校130周年記念誌の民話を紹介する資料には、追放・帰還ではなく、返済されないまま病に伏したという語りも見られます。今回は、観光ボランティアガイドによる展示内容を紹介した「祖門和尚物語」の流れに沿っています。
掲載画像は、この物語のために制作されたイメージイラストです。背景には大牟田を象徴する近代の産業風景も組み合わせており、当時の景観や定林寺の実際の眺望・建築を再現したものではありません。
- 大牟田市公式観光サイト「定林寺」(所在地・三池氏の菩提寺・石塔群・紫陽花について)
- 「祖門(そうもん)さん」(中村寛典、三池小学校130周年記念誌掲載文の紹介。民話の異なる語りを参照)
- 「千寿の楽しい歴史」に掲載された「祖門和尚物語」①・②・③(2010年8月12〜13日掲載。定林寺での展示・伝説お話会に関する記録)
参考資料の確認日:2026年10月1日。参拝や見学の情報は、訪問前に公式案内をご確認ください。
おおむた、これから。編集部
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